カウンセラーについて

Message

カウンセリングを始めたのは、今の世の中精神疾患からの社会復帰する人が増えてくるであろうということを感じたためです。

私は「クライエント」という言い方は嫌いなので「ライフパートナー」と言っています。私のカウンセリングにおいて、一番に誇れることは、ライフパートナーの身近な存在になれるということです(友人や、兄弟、子供のような感じ)。

私のカウンセリングにおいて譲れないことは、ライフパートナーが助けを必要としている人か否かを見極めること、ライフパートナーを裏切らないということです。また、自分らしさがなくなることは、笑顔がなくなるということと考えています。勇気が湧いてくる言葉は、「ありがとう」。

STEP of SOUL

精神疾患を患いながら社会復帰を考え その不安と闘っている方へ

はじめまして。内山深賀です。

こちらで紹介する私の過去のお話は、精神疾患を患いながら社会復帰を考えその不安と闘っている方に向けてのものです。

振り返っている途中、精神的に辛くなりました。涙がでました。

一度、いいえ二度、三度、消去したくらいです。

もう、やめてしまえ!

そう思って悩みながら何週間もかかってしまいました。

少し具体的で恥ずかしい部分もありますが、あなたの参考になれば幸いです。

私としても最後まで書けてよかったと思っています。

幼少期 先天性疾患の発覚と学校

私は幼い頃から変わった子で通っていました。

今で言う発達障害でした。

左股関節の病に侵されていると知ったのは小学校低学年の頃でした。

その上で、産まれてすぐに股関節疾患を持っていたそうです。
当時の担当医に「このままだと30歳まで自分の足で歩けたら良い方だ」と宣告を受けました。

激しい運動の出来なくなる事。立ち仕事は無理な事。体重制限のある事。色々制約があったように思います。

反面「深賀ちゃんは優秀だね」と言われるくらい学校のテストはよくできました。事実、中学卒業まで5点満点の通知表が途切れたことがありませんでした。

なので、幼い頃から高校卒業まで両親・祖父母に干渉を受けたことはありませんでした。弟の方に関心は主に向いていたと思います。

中学になり なんでイジメられたのか

いじめのきっかけは、私の次のひとことでした。

「私とずっと一緒には居られないんだよ」

友達のNさんが、あまりにひどく私につきまとうので、ついつい、この言葉を言ってしまったのです。

Nさんは、
トイレに行くにも、つねについてくる。登下校は校門でまっていて、ついてくる。

つねにつきまとわれて、自分の時間がなくなった感じがしました。

そして、「私とずっと一緒には居られないんだよ」
この言葉を言ったことにより、いじめが始まりました。

中学2年から卒業までクラスの女子から一斉に無視をされていました。

多分男子と音楽の話で盛り上がっていたりしていたからでしょう。

私は
「この子たちに、どう思われても関係ないや」
と思い、同級生とは一切遊ばなくなり、ライブハウスに通うようになりました。

本当は寂しくて、孤独を埋めたかったからだと思います。

しかし、ライブハウスに通うようになり、当然益々周りの女子は歓迎したくないわけです。

「深賀ちゃんは不良」

そういうレッテルも貼られていたと思います。

「学校に行ってもつまらない。」
「早く帰ってライブハウスに行きたかったなあ・・・。」

結局、中2、中3とイジメは続き、高校に入学するまで、その状態は続きました。

そして、高校生になりいじめはなくなりました。

しかし、ライブハウス通いは変わらず、

当時「LUNACY」という名前で活動していたバンドにのめり込みライブを見に全国に行くようになりました。
今現在の「LUNA SEA」です。

それがきっかけで、学校には行かなくなり、ライブ仲間とつるみ、お金がないから歳を誤魔化して水商売や言うのがはばかられるようなバイトをするようになりました。

そして、高校を卒業すると同時に実家を飛び出しました。

借金と手術

ライブに行く衣装や、メンバーへの差し入れに大金を注ぎ込み、20歳になった時には借金が150万を超えていました。

さすがに150万円にふくらんだ借金を見た私は、「どうしよう、150万円も返せないよ・・・」困り果てました。

結局、借金を返すあてなどありません。
仕方なく実家に帰ることを余儀なくされ、地元の会社で働くことになりました。

地元の会社でコツコツと働きながら、借金を返す日々をおくることになりました。

そんな中「LUNA SEA」がメジャーデビューをする事となりました。
どうしてしまったのか、今まで私の中にあった思いが萎んでいくのを感じました。

ライブ熱もさめて、一段落と思ったのですが、同時期に左股関節の激痛を感じるようになりました。

痛みはどんどんひどくなる。少し動くたびに激痛が走ります。

寝ても起きても何をしても痛い。

でも、バカな私は、病院が大嫌いで、病院に行かずに激痛をずっと我慢していたのです。

年に1度は定期検査に行かなければならなかったのにライブにはまって、いつからか行かなくなってもいました。

「バチが当たったんだ・・・」

と思いました。

その結果、22歳になった辺りから寝ても立っても座ってもいつでも激痛に襲われるようになりました。

そうして、1998年4月とうとう診察に行きました。
診察してくれたのは、まだ20代の若い医師で私のレントゲン写真を見るや上司の医師を呼び、何やら話し合っていたように思います。

そして、医師から出た言葉

「即入院して、手術をした方が良いですね」

そんな事は全く考えていなかったので、かなり衝撃を受けました。

会社に勤めてはじめて、まだ半年くらい。
当然、借金もまだ返し終えていません。
高校時代から仲が良かった男性と付き合いはじめ、
そして、結婚を考えていた時期だったのです。

悩んだ末手術をしました。

1998年11月25日 入院
毎日が検査の日々。

しかし、さらにショックな出来事がつづきます。

入院していたある日のこと。会社の事務員さんが、病室を訪ねてきたのです。

そして、その事務員さんが
「会社を辞めてくださいとのことです。」と言ったのです。

私は「え?」
一瞬何を言っているのかわかりませんでした。
よく話を聞いてみると、会社をクビになったということでした。

その頃から抑うつ状態になってきました。
どんどん症状はひどくなる一方。

毎日

「死にたい」

と思っていました。
何をするにも気力がわかない状態になってしまったのです。

12月1日。
この日は、検査を兼ねての簡単な手術。下半身麻酔というものを始めて経験しました。
始めての手術でじっと天井を見ていました。

クリスマスの事について話しているのも聞き、何やら悔しくも思いました。
手術後も、採血は続いていたように思います。

大手術への不安と、手術の後遺症での頭痛で眠れない日が続き、睡眠剤を処方してもらうようになりました。
病院の廊下で不安から苦しくなり、倒れた事もありました。

結局手術は合計6回にもおよびました。
全身麻酔も初体験。
それでも、完全には治らなかったのです。

お医者さんからは
「将来、人工関節にする手術が必要です」
と言われました。

私はこの時
「何で、こんな身体に生まれたんだろう」
と母を恨みました。

入籍そして「うつ病」発症

この頃うつ病発症。主に投薬で治療を始めました。

診断を受けた瞬間

「やはり・・・」

「きちゃった・・・」

覚悟はしていたものの、いざとなると涙がとまりませんでした。

焦りからか、入院中に、入籍もしました。

1999年6月 退院
リハビリをするのも億劫でたまりません。
何かしたい、刺激が欲しいと思いつつ、何をしたら良いのかわからない。

気力もわきません。

どんどん症状は悪化するばかり。

ともかく毎日が「辛い」。
生きていても辛いだけ。

そして、死にたいという気持ちが芽生え、
ついに私は、リストカットを始めたのです。

きっかけは些細なことでした。

当時は専業主婦をしていました。何気なくカボチャを切っていて、小指を切りました。

「じっ・・」

と、流れる血と、手首を見ました。

(楽になれるかもしれない!!)

リストカットへの不安、恐怖はありませんでした。

ただ今の現状から抜け出せるかも、そう思ったのです。

何度も何度も繰り返しました。

リストカットをした時だけ解放された感じがしたからです。

「誰かに振り向いて貰いたい」と、思ったからでしょうか?

眠れない日々。
そんな状況で、私はネットゲームに依存していきました。

眠れないので20時間ぶっ続けで、ゲームをする日もありました。

そこまで、夢中になったのは、ネットを通じて、仲間・友達ができたのも理由のひとつです。

当時の私は寂しい思いが強く、
「ゲームで知り合った仲間と会いたい」
「直接会って話したい」

そんな思いにとりつかれました。

当時のゲーム仲間は、大阪近隣の人が多数でした。
その一心で私は勝手に大阪で仕事を見つけました。

病気のせいもあり、実は夫との関係も冷めていました。

夫に
「大阪で働くよ」
と言ったところ、

「行けば」
という返事。

私はこの返事に対して
「私は居なくてもいいの?」
「私の存在ってなんだったの?」
と思いました。

それで夫を残して、私はひとりで大阪に引越ししました。

好きで結婚したはずなのに・・・。

お互いに利用したのでしょうか?
自分の居場所を見つけたかったのかも知れません。

大阪に移住し毎日が楽しい生活。

うつ病をわずらいつつも、大阪に移住したことにより仕事も充実し、付き合う友人もできました。

離婚 「双極性障害」発症

しかし、この充実感は、うつ病が悪化したことによる、双極性障害のせいだったのかもしれません。

毎日不安定な日々を過ごしていました。

明るくハキハキとしている日が続いたかと思ったら
急に何もかも投げ出して寝ていたい、何もしたくない
そんな毎日。

夫との関係は完全に冷めきってしまい、お互い好きなことを別々にやっている状態。

結局そのまま離婚しました。

躁の時、あるインディーズの全国ツアーに何度も周り、借金総額は(一度全て返済しました)200万を超えました。その辺りから行動がおかしくなり、友人がドンドン減っていきました。

躁状態の時は寝ずに遊び回る。
うつの時は誰とも連絡を取る気が起きない。

そんな感じで、寄り添っていてくれる友達は病気を理解してくれたひと握り。

勿論、全員に話をしたわけではないので、当然おかしいですよね。

私だって病気を知っていても健常者の立場なら離れていってしまうと思います。

突然の東京への引越

単純に追っかけたいバンドが東京メインになったから、こんな理由です。

東京に引っ越しをし、新しく働き口を探します。

障害者手帳はあるものの、それを見せずに、双極性障害を隠して、就職しました。

仕事はブラックでした。

海洋コンサルの会社で働いていたのですが、終電は当たり前。
下手をすると徹夜2日で働いていました(36時間労働はよくありました)。

結婚当時からねこを2匹飼っていました。
その世話のために、一旦会社を出て始発で自宅に帰る。

ねこのごはんとトイレの片付けをして
またラッシュに揉まれ会社へ・・・。

その日々の繰り返しのせいで、私の精神はドンドン病んで行きました。

眠れない、眠れない、無理な仕事を押し付けられる。
感情を出す相手もいない。

親しい友達もまだ見つかっていない。

忙しく、精神科への通院も滞りがちになりました。

転職をして、某電鉄の会社での設計アシスタントの仕事に変わりました。
そこで派遣で来ていた、7歳年上の人と知り合い交際がスタート。

1年半付き合い同棲。
同棲中に妊娠が発覚するも、癌も見つかりました。

癌が見つかった時私は
「子供どうしよう、産めるのかなぁ?」

それで、仕事は退職しました。

躁だったのかうつだったのか、もうこの頃既に統合失調症を併発していたのかは定かではありませんが病状はどんどん悪くなる一方。

私は何を思ったのか、お腹を包丁で何度も何度も刺しました。

あなたは知ってますか?
お腹を刺しても実は血は出ないんですよ。

脂肪があるんです。

脂肪は意外と固くて、脂肪を突き破って、自分で包丁を刺すのはすごく力がいります。

人間の体って丈夫なんですね。

血は出なかったものの、しっかり傷跡は残っています。

近くの産婦人科は心療内科も併設していたので、さすがに私も相談しました。
すぐに某大学附属の病院に転院。

毎日何もできない日々。

その後、癌の手術をしなければいけなくなり、そのせいで、中絶をしいられました。

癌の手術と中絶への憤り。
私の中で、色々なものが、ドンドン崩れていきました。

寝たきりに近い生活。

彼の母がたまにお見舞いに来ても、もてなす事さえできず、苛立つ毎日。

あんなに可愛がっていたねこたちにも、暴力を振るうようになってきました。

混乱していたのか、当時の気持ちは今考えても、よくわかりません。

ただハッキリ言えるのは、可愛がっていたねこに暴力をふるったことだけは、病気が良くなってきた今、最も許せないことです。

でも事実です。

ホントは書きたくない気持ちもありますが、あえて正直に告白しました。

出来ない自分との戦い

その後、双極性障害が悪化し
電車に乗ることが出来なくなりました。

うつがひどい時は、動く気力がまったくありません。
ご飯ですら一人で食べられなくて、介助が必要になってきました。

お風呂も当然一人では無理です。
着替えもできないので、着替えさせてくれるまで待っていました。

「死にたい」

「楽になりたい」

「誰も私の気持ちを分かってくれない!」

そんな中での二度目の結婚。

人当たりが良かったからでしょうか。
こんなひどい状態なのに、私をサポートしてくれる男性がいたのです。

しかも結婚を望んでくれるんです。

「こんな私でも認めてくれる」

「目の前でリストカットしても大丈夫な人がいる」

とても嬉しかったです。

私は「誰かに必要とされている」

そういう感覚に飢えてたのだと思います。

相手の両親も喜んでくれ、東京のこぢんまりとした場所でお互いの友人家族だけを呼んで結婚式をしました。ねこたちに囲まれ、マンションも買い、幸せな日々が続くと思いました。

ですが・・・、精神疾患は悪化の一方。
幻聴幻覚に襲われる毎日。

居もしない赤ちゃんの声が聞こえてきたり、私を罵倒する声が頭の中に鳴り響くなど、苦痛にみちた毎日を送っていました。

同時に、情緒不安定性人格障害が現れ、無意識にリストカット。

気がつくと、全身が血だらけになっているなど、今では考えられないような日々でした。

自分で自分をコントロールできないことが原因で、不要な買い物をしたりして、借金が増えました。

そこで痛恨の離婚宣言。

「何故? 私の病気を受け入れてくれたのでは?」
毎日が虚無でいっぱいでした。

母親もその頃から過干渉になり、毎週東京に来ては私の通院、お風呂、髪の毛の事など世話してくれました。

別の人格が現れると本来の自分が消えてしまうのです。

リストカット、オーバードーズ(薬を大量に飲むこと)を繰り返し、赤の他人にも迷惑をかけ入退院の繰り返しです。

リストカットのしすぎで、神経は切れ腱も何本も切れました。
その後遺症で左手は麻痺していて、自由に動かすことができません。
入院中は、両手足を縛られ、オムツで毎日天井を見る日々。

「消えたいな」

何度も思いました。

孤独でした。

こんな自分は嫌だ

そんなある日、私の中の何かが叫びました。

「このままではいけない」

薬を断薬し禁断状態にある中
私は朦朧(もうろう)とした意識の中で、自分を認めることから始めたのです。

少しずつ考えを改め、自分を見つめ直しました。

「自分を傷つけて、楽になりたい自分との決別をしよう」

そう考え始めました。

積極的に閉鎖病棟で友達を作り、居場所を見つけました。
自分の今の状況を受け入れることから始めました。

閉鎖病棟では、リーダー的な人がいました。
その人のすすめで、色々な人と少しずつ交流を始めした。

最初は、うまく話せませんでしたが、徐々に慣れ人と話せるようになりました。

こういった取り組みにより、自傷行為やオーバードーズへの懸念が徐々におさまりました。

そういったことがおさまったことで、退院の許可がでました。
そこで、退院して実家に帰ることにしました。

実家では、週に1回病院に通い診察をうけました。
先生が症状について、詳しく説明してくれて、とても良かったです。

中でも特に響いたのが
「これだけ頑張ったんだから、もうちょっと自分を認めてもいいんじゃない」
という言葉でした。

とても親身になって話を聞いてくれる医師でした。

自分を認める必要があるとは思いつつも、
やはり一人では何もできないし寝てばかり。

Skypeが唯一の繋がりでした。
ネットで知り合った友達と、一日中パソコンで話をしていました。

そこで、自分の新しい居場所を見つけました。
心を許せる友達と話すことが、何よりもメンタルの改善に有効だと感じます。

自分改革の始まりです。

最初は、起床すら辛い状態でした。
そこで、朝起きたら、どんなに起床時間が遅くても、
自分を褒めることからスタートしました。

「起きられたね、頑張ったね」

そんな言葉を、自分に言い聞かせました。

まだ、自殺念慮に取りつかれるときはあります。

そんな時、私は、飼っているねこたちを見るように心がけました。
私はねこが大好きなので、見ると癒やされますし

「ねこになりたいなぁ」なんて思いながら、ねこを眺めました。

また、それ以外にも、深呼吸をするなど、
意識が「死」に向かないようにしました。

最初は、お風呂も週に1回しか入れませんでした。
その回数も徐々に増え、三日に一度、二日に一度。
目に見えて良くなりました。

自分を認められる日々の始まり

Skypeの友達から、自己肯定感について教わりました。自分の良いところ、悪いところ、含めてすべてを肯定することです。

自己肯定感をあげることは、当時はあまり意識していませんでした。ですが、結果として自己肯定感をあげる行動、自己受容を学んで行きました。

そして、母が探してきた作業所に通所するようになりました。

単純な軽作業を、休憩を含め一日5時間ほど。しかし、最初は毎日決まった時間に起きることが苦痛でした。

でも、諦めないで続けました。

思いがけず、そこで友人もみつかりました。

毎日が楽しくなりました。

また極力、外出を心がけました。
最初は不安で、周りの人に見られたくない気持ちで、いっぱいでした。

しかし、少しずつ外出するように、頑張っていったところ、外出するもの苦にならなくなってきました。

その頃から、一日を振り返って良い事だけを、ノートに書き出すことを始めました。

自分の中でも、悪いことを書くのが嫌になってきたからです。良いことだけを書くことで、良い出来事の実感が高まります。

こういった感じで、双極性障害・統合失調症から回復していきました。

かなり時間がかかり、結局4年くらいかかりました。
最初の診断を受け20年。
今も寛解(かんかい、精神疾患の完治のこと)には至っていませんが。

本当は、カウンセラーにたよることができれば、もっと早く病状がよくなったのかもしれません。しかし、私を担当したカウンセラーとは、相性が最悪でした。

なぜか、カウンセラーの方から、私に話しかけてくれないのです。
カウンセリングは週に1回1時間。

その時間の間は、ずっとお互い気まずい沈黙が続きます。
カウンセラーはパソコンに向かい、
私はうつむいたまま・・・。

今ふりかっても、少し不思議な感じですが、きっと、カウンセラーとの相性が悪かったんだと思います。

そうだ!カウンセラーになろう

そのようなとんでもないサポートを受けてきたので、私は、私と同じように自分に合っていないサポートで悩んでいる人に、しっかりと寄り添ってあげたいと思います。

うつ病や双極性障害からの回復には、コツコツとした積み重ね、行動が必要です。

私自身、かなり苦しい思いをして、乗り越えてきました。
そういった経験を活かして何かできないかと考えました。

私の経験が、役に経てば、同じような思いで苦しんでいる人を助けられるかもしれない。

私は特に、Skypeの友人には助けられました。
なぜなら、Skype仲間に心理カウンセラーがいて相談させてもらえたからです。

信頼できる仲間に話をすることで徐々に私の心がほぐれました。

「行動しなくては良くならない」

友人との会話でそんな風に感じたからです。

私も、ネットを通じて、通話などで、同じように苦しむ人を、サポートしてあげたいと強く感じるようになってきました。

だから一生懸命カウンセリングの勉強をしました。
資格も取りました。

もし、あなたが、この文章を読んで、ピンときたらぜひメールをくださいね。この文章を読んでの感想でも嬉しいです。気軽に感想など聞かせてくださいね。

大丈夫です。私はどん底にいました。後は這い上がるだけでした。

そして、運命の出会い。
同じような目標を持った人の集まるコミュニティに参加しました。カウンセリングのスキルも日々激変しました。

同じような苦しみを抱えた人々の声を聞く

「メンタルキャッチャー」

として働いています。

(※メンタルキャッチャーとは、私が作った肩書で、「あなたの心を受け止めますよ」という意味です。)

諦めないでください。

自分に合わないカウンセラーはいませんか?

私は、自分に合わないカウンセラーに会って毎週、1時間、苦痛な無言の時間を過ごしました。

私と同じような境遇な方は居ませんか?

啓発本を読んで何かが変わりましたか?
読むだけでは変わりませんよね?

一人で悩みを抱えてはいませんか?

色々な経験をした私がサポート致します。

安心してください。

私はあなた方の味方です。

最後まで読んでいただき有難うございました。